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小話:名前をつけるということ

ツイッターの公式には「いま何が起こってる?」という、ピックアップトレンドを表示する機能がある。

 

先日、ここで「グレイヘア、白髪を染めない生き方が話題」というタイトルを見かけた。

なるほど女性のアンチエイジングに反する、いわゆる『自分らしい生き方』のひとつということだそうだ。

 

news.yahoo.co.jp

 

もちろん、それは個々人のライフスタイルであって、そこにどうこうと言を挟むつもりはない。

そこではなく、こうして人は『枠』を作るのだな、と思ったのだ。

 

おそらくだが、過去にも白髪染めに反し、所謂自然な形での頭髪色を愛する人は居ただろう。しかし、彼らを形容し、表現しうる言葉は存在しなかった。せいぜい「白髪を染めてない人」のような、本当にざっくばらんとした表現をされているばかりであったろう。

 

だが、本日からは、彼らは『グレイヘア』として呼称される。「あの人はグレイヘアだね」「私もグレイヘアにしようかしら?」そんな会話が起こるようになるのだろう。

 

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人は、と括ると大雑把過ぎるかもしれないが、巷は何事においても『呼称』をつけることを好む。通信量を「ギガ」と呼称したり、流行を作る人を「インフルエンサー」と呼称したりといった具合だ。

ここにはメディア等における人々へのわかりやすさという点も含めた、「存在への認知」というものがあるのではないかと思う。

 

誰もが得てして「わからないもの」を嫌い、恐怖する傾向にある。現象であったり、存在であったり、そういったものを認知し、他者と共有するために「名前」というものを与えることで実体化を行ってきたのだ。

 

俗に言う「オタク」や「パリピ」、「オラオラ系」「DQN」などが最たる例で、この言葉が出る前までは、彼らを形容する単語はなく、「あんな感じ」と漠然とした雰囲気を共有するにとどまっていただろう。

しかし、これらの言葉の発生により、彼らをカテゴライズすることに成功し、他者と感覚や存在を共有することができるようになったのだろう。

 

この営みに関しては聖書をはじめ、相当の過去にさかのぼる必要のある話のため、起こりに関しては省略させてもらう。

気になるのはどちらかといえば「現在の在り方」である。

 

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昨今は何にでも名前をつけたがる印象を受ける。通信量を「ギガ」と呼称するようになったことなどは、それは大きさの大小形容する単語であり、通信に使われる単語ではないのでは…と思ったほどだ。

しかし、この単語ができることで「ギガを節約!」などの形容表現が容易になったことも事実である。

 

SNSの発展で、人は他人と容易に「繋がれる」ようになった。しかし、そこには文字情報や画像データといった「壁」が立ちはだかることになる。

そうなるとやはり、名前をつけることでお互いの共通見解、共通認識を図ることは必須なのだろう。いま自分が何を伝えたいのかを過不足なく伝えるために語彙力のトレーニングを課すことは本末転倒であるとも言える。

 

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しかし、行き過ぎたカテゴライズは了見を狭め、考え方を凝り固まらせ、またかつてあった日本語を殺してしまうことになるのではないか、とも考えるのだ。

 

先にも述べた「オタク」や「DQN」などは、1つのカテゴリに属し切らないことも多い。見方によって、人によってその人がどのカテゴリに属するか意見が分かれることもあるだろう。

また、場合によっては人を貶めるカテゴリもあり、そこに押し込めることで個人や集団を攻撃する手段になってしまうことも、往々にある。

 

詳しくは忘れてしまったが、ジャズの巨匠がかつて「僕らがやっているのは『音楽』だ、そこにジャズであるとか、そういったカテゴライズは不要だ」と言ったことがある、という話を聞いたことがある。

数学界にも、「分かれている全ての分野は根底で繋がっており、全ては一つの大陸なのだ」という、ラングランズ・プログラムという概念がある。

おそらくどちらも、本質的には変わらないのだろう。すべてのもとはひとつだった、ということだ。

 

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何かを枠に当てはめて考えることは簡単だ。しかし、その逆は、そうにはいかない。抽象的な概念を掴むためには、やはり枠は必要なのだろう。

たまにはそこから出て、広く大きな視点を持つことも必要ではないだろうか。もっとも、その考え自体が、どこか「枠にはまった考え」なのかもしれないのだけれども。

 

<了>